パラリンピックとは
What is the Paralympics?

パラリンピックの歴史

治療・訓練から自発的なスポーツへ

障がいのある人々が身体運動を行なっていたという記録は紀元前から見られる。また、医師や体育指導師により「治療体操」としてスポーツが行われるようになったという記録も残されている。
しかし障がい当事者自身が組織を作り自発的にスポーツ活動をはじめたのは、19世紀以降のことである。

1888年、ドイツでは聴覚障がい者のためのスポーツクラブが創設され、さらに1910年にはドイツ聴覚障害者スポーツ協会が創設された。
また、第一次世界大戦(1914〜1917年)後は、イギリスで身体障がい者自転車クラブや英国片上肢ゴルフ協会が創立されるなど、障がいのある人々が自発的にスポーツを楽しむようになった。

パラリンピックの原点

国際的な障がい者のスポーツ大会は、1924年に設立された国際ろう者スポーツ連盟(CISS)が、同年にパリで開催した第1回国際ろう者スポーツ競技大会(現デフリンピック)がはじめてである。

しかし現在のパラリンピックへと発展した原点は、第二次世界大戦(1939〜1945年)後のことである。
1944年、イギリスのチャーチル首相らは、ドイツとの戦争激化により負傷し脊髄損傷になる兵士が急増することを見越して、兵士の治療と社会復帰を目的に、ロンドン郊外にあったストーク・マンデビル病院内に脊髄損傷科(Spinal Unit)を開設した(1953年に国立脊髄損傷センターと改名)。
その初代科長に、1939年にナチスによるユダヤ人排斥運動によりイギリスに亡命した医師、ルードウィッヒ・グットマン卿(Sir Ludwig Guttmann)が任命された。

グットマン卿は、スポーツを治療に取り入れる方法を用いた(1944年にパンチボール訓練を導入、その翌年からは車いすによるポロやバスケットボール、卓球などを導入)。
1948年7月29日、グットマン卿はロンドンオリンピックにあわせてストーク・マンデビル病院内で16名(男子14名・女子2名)の車いす患者(英国退役軍人)によるアーチェリー大会を開催。これがパラリンピックの原点である。
グットマン卿は、この当時すでに「将来的にこの大会が真の国際大会となり、障がいを持った選手たちのためのオリンピックと同等な大会になるように」という展望を語っている。
この大会は毎年開催され、1952年にはオランダの参加を得て国際競技会へと発展し、これが第1回国際ストーク・マンデビル大会となった(130名が参加)。

国際大会への飛躍

1960年、イギリス、オランダ、ベルギー、イタリア、フランスの5か国により国際ストーク・マンデビル大会委員会(ISMGC)が設立され、グットマン卿がその初代会長に就任した。
ISMGCは、オリンピック開催年に実施する大会だけは、オリンピック開催国でオリンピック終了後に実施する意向を表明した(この当時から関係者のコメントの中に、Paraplegic Olympic(対麻痺者のオリンピック)という言葉が用いられている)。
そして同年、オリンピックの開催されたローマで国際ストーク・マンデビル大会が開催された(23か国・400名が参加)。
ちなみに、このローマ大会は、IPC設立後に第1回パラリンピックと位置づけられている。

東京大会とその後

1962年、国際身体障がい者スポーツ大会(IPC設立後、第2回パラリンピックと位置付けられた)の開催に向け準備委員会が設立された。
その委員長に、当時の社会福祉事業振興会会長(元日本障害者スポーツ協会名誉会長)の故葛西嘉資氏が就任した。
葛西会長は、当時グットマン卿に師事していた中村裕博士(社会福祉法人太陽の家やフェスピック連盟の創設者)とともに大会開催の準備を進めた。
両氏は東京大会を、車いす使用者だけではなく、すべての身体障がい者が参加できる「国際身体障がい者スポーツ大会」の開催を決意。グットマン卿ら関係者に理解を求めた。
そして1964年に開催された国際身体障がい者スポーツ大会は、東京オリンピック直後に2部制で開催された(第1部は、ローマ大会に続く国際ストーク・マンデビル大会であり、後に第2回パラリンピックに位置づけられた。第2部はすべての身体障がい者と西ドイツの招待選手による国内大会)。
そもそも「パラリンピック」という名称は、「オリンピック開催年にオリンピック開催国で行われる国際ストーク・マンデビル大会」=「Paraplegia(対まひ者)」の「Olympic」=「Paralympic」という発想から、東京大会の際に日本で名付けられた愛称であった。

国際身体障がい者スポーツ大会への発展

車いす使用者だけで行われていた国際大会であったが、1976年のモントリオールオリンピック開催年に行われたトロント大会は、はじめて国際ストーク・マンデビル競技連盟(ISMGF)と国際身体障害者スポーツ機構(ISOD)の共催で行われ、脊髄損傷者に加え視覚障がい者と切断の選手が出場するようになり、大会名は「1976 Olympiad for the Physically Disabled」、愛称「Torontolympiad(トロントリンピアード)」と呼ばれた。
また同年、ISODが中心となり切断者による冬季大会がスウェーデンのエンシェルツヴィークで開催された(IPC設立後、第1回冬季パラリンピックと位置づけられた)。

1980年3月、グットマン卿逝去(享年80歳)。この年、視覚障がい者の国際的なスポーツ団体である国際視覚障害者スポーツ協会(IBSA)が設立された。大会は、モスクワオリンピックの開催年であったが、西側諸国のボイコットの影響もありオランダのアーネムで開催された。大会名は「Olympics for the Disabled 1980」とされ、脳性麻痺選手の出場も認められた。
同年2月、ISODにより、ノルウェーのヤイロにおいて第2回冬季大会が実施された。

1984年1月、冬季大会がインスブルックで開催され、21か国から419名の選手が出場した。
またこの年は、ロサンゼルスオリンピックの開催年でもあった。
当初夏季大会の会場は、車いす競技をイリノイ州で、その他の身体障がい者競技をニューヨーク(この大会からその他の身体障がい者(Les Autres)も参加できるようになった)で行う予定であった。しかしイリノイ州が、財政難を理由に大会4か月前に急遽キャンセルしてきた。
このため、ISMGFが車椅子競技を引き受け、英国のストーク・マンデビル病院で実施したのである(この車椅子競技大会は、IOCの承認を得てパラリンピックと名乗っている)。
当時の正式名称「The International Games for the Disabled」。

パラリンピックが正式名称に

1985年、IOCは国際調整委員会(ICC)がオリンピック年に開催する国際身体障がい者スポーツ大会を 「Paralympics(パラリンピックス)」と名乗ることに同意した(オリンピックスという言葉を名乗ることは禁止された)。
しかし、従来のパラリンピックという言葉は、対麻痺者のオリンピックという意味であったことから、身体障がい者の国際大会になじまなかったため、ギリシア語の接頭語であるパラ=Para(沿う、並行)+Olympic(オリンピック)と解釈することになった。

競技性の高いスポーツ大会へ

1986年、聴覚障がい者の国際スポーツ団体である国際聴覚障害者スポーツ協会(現 国際ろう者スポーツ委員会=ICSD)と国際精神薄弱者スポーツ協会(現 国際知的障害者スポーツ連盟=INAS-FID)がICCに加盟した。
しかしICCは、国際障がい別団体の会長や代表などにより組織されていたため、実働組織として十分に機能していなかった。
そのため、リハビリの延長ではなく競技性の高いスポーツ大会を望む多くの競技者やスポーツリーダーから不満が続出していた。
そこで1987年、アーヘン(オランダ)での会議が世界の情勢を大きく変えた。
これらの不満を解消するための特別委員会を設立し、すべての競技者、組織や国・地域(スポーツ組織が独立している地域を含む)の統一組織の設立について模索がはじまった。
1988年、ICC主催により「ソウルパラリンピック」が開催され、61か国から3,057名の選手が出場した(聴覚障がい者と知的障がい者の出場は認められていなかった)。
この大会は、オリンピック組織委員会がオリンピックとパラリンピックを連動させたはじめての大会であった(オリンピックで使用した会場も使用された)。
同年1月、前回同様インスブルックにおいて第4回冬季大会が実施されている。

国際パラリンピック委員会(IPC)設立

1989年9月22日、ドイツのデュッセルドルフの会議において国際パラリンピック委員会が創設された。
それ以来、パラリンピックは障がい者にスポーツ活動の機会を提供する理念「機会均等と完全参加」と、「障がい者のスポーツのエリート性」を表す言葉になった。
初代会長には、カナダのロバート・D・ステッドワード博士が就任した。
1997年、ドイツのボン市がIPCの本部誘致に成功。
当時、ドイツの首都がボン市からベルリン市に移転したことにより、ボン市は国際的なステイタスを失うことを危惧していた。そこでボン市は、築100年以上の歴史的な建物と改築費を提供し1998年9月にIPC事務局が始動した。
それと同時に、IPCの事務を引き継げる14名の専門チームを募集し、それ以来、効率的でプロフェッショナルな事務局運営がなされるようになった。

世界最高峰の障がい者スポーツ大会へ

2000年、第11回シドニーパラリンピック開催。
大会期間中、ファン・アントニオ・サマランチIOC会長と、ロバート・D・ステッドワードIPC会長によってIOCとIPCとの協力関係に関する話し合いが持たれ、「オリンピック開催国は、オリンピック終了後、引き続いてパラリンピックを開催しなければならない」との基本的な合意に達した。
さらに2001年6月19日には、スイス・ローザンヌにおいて、IOCとIPCの両会長によって、IOCとIPCとの協力関係に関する2度目の話し合いが持たれ、より詳細な協力関係に関する合意がなされるなど、世界最高峰の障がい者スポーツ大会へと発展し続けている。